雑記
最近、本を読まなくなったなあ。と思う。
理由は簡単で、本に時間を割けなくなったから。結局、時間というものは1日24時間しかなくてそれは本当に人類全体が本当に平等にしか持つことができない絶対のものだから、あなたが恋人と別れたのも、勉強がうまくいかないのも、さっき食べたハンバーガーがまずかったのもきっとそのせいなんだろう。カンニングした数学のテストの答えの様にいささか直線的すぎるかもしれないけどそういうことだ。
そうそれで、そういうことで本を読まなくなった。僕は本当に本を読むのが好きだし、自分のアイデンティティの一つだと思っているのでとても寂しい。もし、読書をしなかった自分というものがいたらとても会ってみたいと思うくらい自分の大きな要素の一つだ。
なのでこの間、僕が本屋に行ったのは今思うと実に2ヶ月ぶりくらいだった。2ヶ月!2ヶ月も本屋に行かない生活が現代で成り立つなんて!アマゾンは本屋ではない!
たまたま、新しい携帯電話とりに行った時の長い待ち時間を過ごすために入ったんだと思う。(余談だが、前の携帯は渋谷のタワー・レコードの3階、洋楽ロックにあるトイレで紛失した。ロックが好きな奴にろくな奴なんていない)そういえば、僕はさらにその一月前から村上春樹が翻訳した「グレート・ギャッツビー」が読みたいと思ってたことを思い出して、それと隣にあった印象的な装丁の「象の消滅」という同じく村上春樹の短篇集を購入した。
どちらから読もうか迷ったが、結局「象の消滅」から読むことにした。特に理由はない。そう、気分。
僕の読書は早い。自慢じゃないが昔の俺はこんなもんじゃなかったぜ。というセリフすら言ってしまうくらい。でも、今の僕はそんな気分じゃなかった。コーヒーを淹れる待ち時間や、お昼の待ち合わせに遅刻する友人を待つ時間をぬうくらいのペースでゆっくりと読んでいった。一つ一つのセリフや比喩、隠喩がとても印象的に僕の心にしみた。ところでだけど、僕はそういった心にしみこんでいったものを意識的に思い出せることはほとんどない。クラムチャウダーにディップしたクラッカーが原型を留めず、クラムチャウダーの”一部”になってしまうのと同じ様なことだ。
どれも印象的な短編だったが、”沈黙”という話が特に好きだった。僕は村上春樹は短編しか読まないんだけれども(長編は長すぎて退屈だし、隠喩が多すぎてわかりにくい)「レキシントンの幽霊」に収録されているこの話を読むのは二度目でやはり僕はとてもこの話が気に入ってる。引用するには少し長すぎるし、面倒くさいのでしないけれど、僕はこの話を読むと決まって高校時代を思い出す。あの高校にいた人たちの独特なとても強い独特な集団性が僕はとても苦手だった。僕もこの大沢さんの様にああいう人たちが本当に怖いのだ。
逆に引用する一節で好きとは言わないけど、一節としてとても残ったのは”午後の最後の芝生”という話の冒頭少し後に出てくる一節だった。
”僕は僕とは別の人間が彼女を抱いているところを想像してみた。誰かがー僕の知らない誰かがー彼女の小さな乳首をそっと噛んでいるのだ。なんだかすごく変な気持ちだ。まるで自分がなくなってしまったみたいだ。”
そういうことだ。もう一度言うけど、別に気に入ってるわけじゃない。
次は、「グレート・ギャッツビー」を読もうと思う。僕は海外文学というのがとても苦手だ。翻訳されたものというのがとても苦手なのだ。なんだかこう、自然じゃないのが苦手なのだ。でも、レイモンド・チャンドラーの「リトル・シスター」はとても上手に読めたので、「グレート・ギャッツビー」読んでみようと思った。楽しみだ。